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援護法と山川泰邦氏

 
狼魔人日記の読者による推論

 山川氏のプロフィール(1908年~1991年)
 沖縄県国頭村本部町に生まれる。1934年(昭和9年)に警察官拝命、1944年(昭和19年)に花警察署副署長。戦後は琉球警察学校校長、前原、本部、石川、那覇の各警察署長を歴任。1953年(昭和28年)には琉球政府比嘉秀平初代行政主席の要請を受けて、琉球政府社会局長に就任、援護業務等に携わる。1958年(昭和33年)立法院議員に転身、5期連続当選。1967年(昭和42年)からは立法議長を務めた。

援護法の適用に東奔西走する
 1984年8月21日発行 血戦・沖縄 沖縄県民かく戦えり (世界日報社会部) 135ページ

 戦後、琉球政府の社会局長の時、山川泰邦氏(七四)は、総理府恩給局と厚生省引揚援護局を訪ね、「学徒を兵隊扱いにしてほしい」と頼んだ。だが係の職員は「かつて日本の歴史の中で、軍人でない者を軍人として扱った例はない。だが軍属扱いにしてもよい」と冷たく答えるのみだったという。
 しかし、山川氏はどうしても納得できず「学徒が軍人であり、兵隊として立派に戦った証拠を集めて再び上京しよう」と決意。生き残った学徒に、動員までの経緯、そして戦友がどのように戦い死んでいったかを書いてもらい、整理したレポートを持って再び上京、「この通りだ」と示した。
 その資料を読み終えた職員はひと言、「悪かった」と謝って、兵隊扱いに同意したという。
 《沖縄出身者は、沖縄の地形をよく知っていたために、夜襲の先陣や兵士たちの案内として先頭に立ち、犠牲となっていったんです。学徒たちは本当によくやりましたよ。それを知っていたから、どうしても兵隊扱いにしてやりたかったんです》

 社会局長当時、聞き取り調査や証言を集め、一度断られて厚生省引揚援護局を訪ね、沖縄戦を戦った学徒は軍属ではなく、軍人扱いするように要請、許諾させる。

不可解な出版 -あった事が隠され、無かった事が記載されている-
 1969年12月1日発行 秘録 沖縄戦記
 渡嘉敷、座間味の集団自決が赤松隊長、梅澤隊長の命令によって引き起こされたと記述している。赤松大尉については「鉄の暴風」に類似した表現となっている。
【関係者の話=山川氏が隊長命令は無かったという記述にすると言っていたので、援護金の支給を守るために、周囲の関係者が山川氏を説得し一年近くかった。新聞社の圧力があり、その表現は日本軍を非難する内容とした。】 

壕の追い出しという山川氏の証言
 1971年11月号 潮 「生き残った沖縄県民100人の証言」
 繁多川の壕には島田知事はじめ、那覇署の本部員、真和志村の玉城村長は職員とその家族など百数十名がこもっていた。
 5月10日ころ、球部隊のある中隊から那覇署に対し、作戦上の必要といって繁多川の洞窟を明け渡すように要求される。
 翌朝「真和志村長は何処だ!真和志村長はいるか」とどなる大声で、皆いっせいに飛おきた・・略・役場職員とその家族およそ70人を、那覇署員が手分けして誘導し、壕を探すことにした。こうしてこの人々は、50日間住み慣れた繁多川の洞窟をあとにした。・・・
 ・・略・・彼等を誘導した警官たちの報告によると「途中で砲弾や機銃をうけ、幾人かが倒れ、また幾人かが傷つき、そのうえ行く先々のどの壕も、どの墓も負傷兵や避難民がいっぱいで中に入れてもえらえず、ついに散り散りになった」という。玉城村長も夫婦二人きりになって、転々と避難をつづけていたが負傷して死んでいったといわれる。《那覇市史 2-6(八)島尻郡旧真和志村戦争記28~29頁》

 《球部隊の壕の退去勧告は、避難勧告であった可能性が高いと判断できる記録》

 ①1993年3月22日発行 沖縄県警察史 第2巻(昭和前編)
5月12日、荒井警察部長は警察特別行動隊を編成し出発させる。その頃、戦線の切迫に伴って那覇警察署は繁多川の壕から真玉橋に移動した。と記されている。

 ②2003年4月25日発行 沖縄の島守
4月24日 日本軍防御第二線が米軍によって突破された為、第32軍司令部は島田知事に「首里・那覇地区の非戦闘員は即刻立ち退き、29日ころまでに南部地区に非難せよ」と下令
 島田知事は27日に南部の市町村長・署長会議を招集。
5月4日黎明、日本軍防御第三線を死守する為、日本軍は総攻撃をかけるが、失敗。戦線はさらに押し下げられ首里周辺に危機が迫った。

 ③防衛省 沖縄戦の記録より
4月22日、第32軍司令部は、第24師団と独立混成第44旅団(島尻在)の北方陣地(首里付近)への転用を決心した。(前田高地以西は第62師団、以東は第24師団)この時独立混成旅団も北進を命ぜられた旅団司令部は識名にあった。独立混成第15連隊が真和志村一帯に展開する(28日から29日)第1大隊は松川付近、第2大隊は壷屋付近に展開。即ち、真和志村一帯は、独立44旅団が陣地を占領して、近く激戦が予想される地域である。

 《知念勇氏の証言に現れた歴史の改ざん》

 ①1996年8月25日 琉球新報
 戦時中の状態そのまま 繁多川「新壕」 沖縄戦の最中、島田叡知事が一ヶ月余り執務したとする記述。
 知念勇氏は当時同壕に避難していたのはほとんど真和志村や那覇署の関係者だったという証言も記載されている。知念氏は当時11歳でミー壕の発見者のひとり、終戦までこの壕に暮らしていた。

 ②1981年3月30日発行那覇市史 資料編第3巻7 市民の戦時・戦後体験記
 409ページ 子供と沖縄戦 「繁多川の警察壕で捕虜に」とだいして知念氏が証言
 部落の人たちの避難壕になったが、後から警察がきて警察壕になり部落の人たちは追い出された。それは10・10空襲の後だった。
 そこに、さらに日本軍が目をつけ、警察を追い出して日本軍の壕にした・・私たちは発見者ということで、そのまま居残ることができた。
 410ページ 父はある日突然日本軍に連れ出された。父が連れ出されて後2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕に帰ってこなかった。

 ③平和ネットワーク 文化財・ガマ部会 吉川由紀 編集 「新壕」(ミー壕)=那覇署・真和志村役場の壕
 6ページに知念勇氏の証言あり
 もしかしたら日本兵は「ここにいたら危ないから、島尻に避難した方がいいんじゃないか」といったのかもしれないがよくわからない。
父とココウ(古弘)さんは、壕から出てすぐに米軍に連れて行かれた。2~3分したら、カービン銃の音がバラバラとした。・・・しばらくして、米軍がいなくなってからあたりを探したが、父もココウさんも見つからなかった。・・・私はこのときから孤児になった。

 軍は交換用の壕や食糧を準備した

 1974年12月25日発行 那覇市史 資料編 第2巻中の6
島尻郡旧真和志村戦争記
 戦争末期の民間人の惨状 宮里一夫 編
 193ページ 繁多川住民が島尻に下る時には軍が交換用の壕や食糧を準備してくれたことだが、これは例外だった。
 壕を交換、食糧もくれ、トラック3台を出してくれた
 207ページ 新田宗政の証言 5月1日、将校が繁多川住民の壕にきて「君等の壕と我々重砲隊の小城の壕と交換しよう」といい、さらに「我々は君らの食糧を使うから、らは我々が小城に残した食料を使え」といった。・・その際友軍はトラック三台をだしてくれ、年寄りと子供はそれに乗り、歩ける人はあるいた。東風平村の小城に区民は全員移動した。
 ・・友軍が三三・五五と逃げてくるようになってからは様相はガラッと変わった。兵隊はまるで狂犬みたいになり、「この壕から出ろ。出なければ殺す」といって銃をつきつけ一般住民を脅迫するようになった。 ある日、兵隊の集団がきて志多伯の戦車隊の壕に住民は出て行けと紙切れを渡した。「これを持って出て行かなければ殺すぞ」・・・・戦車隊の壕で紙切れを見せたら、隊長が出てきていきなり「バカヤロウ!」といい、中に入れなかった。・・・人々は思いのまま散って行った。それから先、繁多川住民は多くの犠牲者を出した。

 那覇市史資料編第2巻中の6 (八)島尻郡旧真和志村戦争記1974年12月25日発行
 219ページ(29頁) 真和志村役場職員 国税 上里安清
警官等と合わずに壕を出るしばらくはその壕で暮らしたがあとからは壕内の生活が気まずくなったので、そこを出て繁多川住民のいる壕に移った。
村役場の職員を追い出したのは軍ではなく、那覇署員
 真和志村役場配給 屋富祖太郎は、新壕に2~3日いたが、家族のことが心配になって天久の実家に帰った。米軍が上陸して戦が激しくなってから、再び家族を連れて戻ったが、その時には警察の人に邪魔されて中に入れなかった。それで、しかたなく弾の降りしきる中をよそに移動したと証言している。
 また、同氏が豊見城村の壕に隠れていた時、村長夫妻に会った。「私たちが壕にいる時、村長夫妻が息もたえだえに入ってきました。雨に打たれびしょ濡れのまま、非常に疲れた様子で入ってきました。村長夫妻は傍から見ても気の毒な位でしたので、私たちの乏しい食物から三回ほど芋や味噌をわけて上げたら「ありがとう!」といっておいしそうに食べました。その後そこを出てから、転々と避難しているうちに夫婦とも負傷して亡くなったとのことです」とも証言している。
村長夫妻は少なくとも何日かは屋富祖氏が居た壕に留まっていると思われる。
 山川泰邦氏が言っているように壕に入れなかったので、被弾したのではなく、壕に留まっていることが出来なかった(食糧を携帯していなかった?)ので、転々としているうちに被弾したのである。

 ミー壕・那覇署壕(新壕)と警察部壕と或いは一般住民が同様に繁多川の壕と混同されかねないように表記されている戦史がほとんどである。

 ミー壕へ那覇署が移動したのは 3月23日~26日(沖縄の島守=25日) これより那覇署壕とも称される。米軍上陸の後、4月4日にミー壕に移られた島田知事は施設中の警察部壕に陣頭指揮の為、毎日出掛けていた。
 ミー壕から600m離れた警察部壕に4月25日の夕方に警察部・県庁の首脳が移動する。4月27日の南部地区市町村長・警察署長会議はここで開催された。

 山川氏は援護法の施行に中心的な役割を果たした。当時、厚生省への報告を壕の提供とした事例を後に壕の追い出しという表現に変えた経緯については把握していないが、‘71年の潮、’69年の秘録 沖縄戦記に記された日本軍に対する批判的な表現は、読者に憎悪を抱かせるものとなっており、真実を把握している者がした行為としては、許し難い。
 繁多川のミー壕にいた真和志村民が日本軍によって壕から追い出されたとした事例については、4月24住民避難と下令、27日の市町村長会議の内容を山川氏は熟知していたという理由から、また5月4日には、日本軍の第3防戦線が米軍によって突破され、繁多川周辺が極めて危険な状況になっていたということを知っていたという理由から、この行為が軍人のエゴイステックな強制ではなく、避難勧告であったことは明らかである。