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知念勇氏、知念堅亀氏からのオーラルヒストリー

 

2009年12月07日 繁多川図書館にて

 新壕(ミー壕)の発見:
 ミー壕の入り口は地主がその存在を以前から知っていたが(大きさは知らない)、子供等が落ちたら危険と思い、その周辺に石を積んで塞いでいたものを、知念勇さん(当時11歳)達が偶然発見したものである。
 発見したのは、10・10空襲の後の昭和19年11月から12月ころだったと思われる。

 発見の経緯は次の通りだった。
 (知念勇氏、新田宗政氏など)ビー球遊びをしていて、移動中にそのビー玉を落としてしまった。暗くなってから探しに行ったが、どういう訳か落としたと思われる道側付近ではなく、墓のある周辺を手探りで行っていた。
 そうすると、岩の間から暖かい風が吹き出してきているところがあり、下の壕があるようだということ分かり、それを大人達が聞きつけ、避難用の壕にするため整備したものである。

 ミー壕の活用:
 住民がそこの入ったのは、3月23日頃と思われる。
 この壕を使ったのは、役場職員と那覇署が主で、住民は20名前後だった。
 那覇署が使うようになったのは次の通である。
 住民が壕を整備すうために、ダイナマイトを役場に貰いに行った。役場は、ダイナマイトの使用許可と那覇署に申請した。繁多川付近には住民の入れる壕がミー壕を含めて7箇所あったので、ミー壕は主に役場と那覇署は使うこととなった。
 住民がこの壕から移動した日にちは不明だが、周辺住民の移動いた時期から判断すると5月3日から10日の間だったと推測される。那覇署がミー壕を出て行ったのは5月25日ころである。

 壕の追い出し:
 寺後洞窟に避難していた、知念堅亀氏によると、日本軍(球部隊?)が壕を東風平村小城の軍の壕と交換して欲しいといって来たのは5月1日で、3日にトラック3台をもって転進してきた。住民はあった米を計り、その分軍の米を軍の壕から貰うという事になった(繁多川戦争記17頁=那覇市史207頁)。南部への移動は軍のトラック3台も使えた。この部隊は5月4日の日本軍の総攻撃に参加するために転進して来たものと思われる。
 4日の総攻撃は失敗に終わり、日本軍の出血は甚大だった。

 ※山川泰邦氏の「秘録 沖縄戦記」にある5月10日のミー壕から真和志村長と住民を軍の都合で追い出したという記述は、4月27日以降に出された南部への避難指示に従わずに壕内にいた一般住民対し、善意で強制的に退避させたというのが真実であろう。

 米軍が繁多川に来たのは:
 6月に入ってから、知念勇氏の父親と具志堅さんの孫(ココウ氏)が連行され(2~3分して)銃声がした。5~6分後に二人を探しに出たが見つからなかった。
 二人を殺したのは米軍だ(死体はみていない)。それから数日間、焼け残った具志堅さんの家で暮らしているとき捕虜となった。

 ※堅亀氏は、勇さんの父親等が米軍によって殺されたことが、那覇市史では日本軍となっていることは、聞き違いだと考えているようだが、勇さんの証言する様子をみれば、到底勘違いしたとは考えられない。やはり意図的に書き換えたとしか思えない。
 ※照屋昇雄氏によると山川泰邦氏の「沖縄戦記」は嘘がある。
 ※沖縄戦の住民戦没者が多い原因には首里撤退後戦線が住民の避難していた南部に集中したためだが、沖縄県と第32軍は19年7月7日に北部疎開を決定し、市長村ごとに避難地域を割り振ったものの、自然壕の多かった首里以南では住民は応ぜず、避難が遅れ、北部への疎開が出来なかったということが根本的な原因であろう。

 以上